冬菜かしこの「小学生、中学生と遊んでみたり、学んでみたり」の日々

二人娘と一緒に遊んで、学んで、楽しんでいるアラフィフ小学生ママの記録です。

【エッセイ】ちょっかいをだす、クラスメイト

実家に泊まって、お手伝いにしていた私のもとに、

朝、一本の電話があった。

それは長女からの、泣きながらの電話。

「今日、8時に目が覚めた。もう、絶対、遅刻する。

もう、学校休んでいい?休みたい」

というもの。

涙声なので、一応、

「学校、休んでもいいけど。

遅刻していけばいいんじゃない?」

と聞いてみると、

「行きたくない」

との一点張り。

「じゃあ、学校に電話しておくよ。

休むんだね」

と念を押して、電話を切った。

 

はて、さて、どうするか。

ひとまず学校に電話して、

「実家の疫病の看病に来ていて、

子供たちのストレスがすごくて、

今日は寝坊したみたいです。

行けたら遅刻していきますが、

休みかもしれません。

よろしくお願いします」

との連絡をし、

どちらに転んでもいいようにしておいた。

 

しばらくして電話すると、

すぐに長女が出て、

「なんで学校行っていないの?」

と一応聞くと、

「行かないもん。今から行っても、からかわれるから。

遅刻してからかわれたくないから、絶対に行かない!」

とのこと。

 

話を聞くと、普段から、長女をからかってくる子が2人ほどいて、

遅刻していくと、そのからかいが更にエスカレートするだろうから、

絶対に行きたくないのだとか。

私にも、「担任の先生に話しておいて」

と、言ってきた。

うーん、えらいこっちゃ。

 

かるーく、いじられてるっぽいじゃない。

どうしよう?どうしよう?

ひとまず、翌日が参観日なので、実家から自宅に帰宅するので、

帰ったら長女に詳しく聞こうと思って、

電話はおわった。

 

そうして自宅に帰って、長女にもう一度事情を聞き、

夕方担任の先生から電話があり、

「どうですか?明日はこれそうですか?」

と聞かれたので、長女から聞いた、事情を説明した。

 

「長女が廊下を歩こうとすると、

それを二人の女児がふさぐようにして、

からかうのが、いやなのだそう」と。

先生は、明日本人から事情を聞きますと言ってくれたので、

ひとまず、母として出来ることはしたので、

安堵した。

 

翌日の参観日は、長女はわりと普通に頑張っていた。

とくに、クラスの子らに邪険にされる様子もなく、

特別人気者ではないものの、

相変わらず地味にいろいろ頑張っていて様子。

 

そうして、夕方長女が学校から帰ってきて、

いの一番に聞いてみた。

「先生、どうだったって?」

すると拍子抜けするほどの明るい笑顔と声で、

思わぬ事実を教えられた。

 

先生は、長女から事情を聞く前に、

相手の二人の女児に事情を聞いたそう。

そして、その内容は驚くべきものだった。

先生曰く、

「○○ちゃん(廊下をふさいできた女児)は、△△ちゃん(長女)と

仲良くなりたいんだって」

だそう。

 

なんでも、

廊下をふさいだり、

ちょっかい出したり、

からかったりしたのは、

長女とどんなふうに仲良くしたらいいのか分からないから、

そういう態度に出ただけ、

とのことだった。

 

もう一人の女子は、すこーし、からかう気持ちがあったものの、

それほど本気ではなく、どちらかといえば、

かかわりあいになりたかったのだそう。

 

まるで。

好きな女の子にちょっかいだす、

小学生男子のやり方ですやんか、、、。

なんか、ひょうしぬけ。

でもなんか、ちょっと、うれしいですやんか。

ぬほほ。

 

話してくれている長女の顔は、

もう、にやにやが止まらない。

今までどんなに望んでも出来なかったお友達が、

しかも、かわいらしい、人気者タイプの女子が、

向こうから、かかわってくれようとしてくれていたなんて!

 

このかわいい女子は、私とママ友さんで、

コロナの流行前は、みんなでよくうちに集まってくれていた仲間なのだ。

どちらかといえば、身内みたいなもの。

小学校で顔を合わせると、かわいい子も、ママさんも、

私ににこにこしてくれていて、

どちらかといえば、仲良しさんになるような感じ。

だから、長女とたもとをわかつのはおかしい、とは思っていたのだが、

まさか、お友達になりたい、とまで

思ってくれていたとは!

 

いやはや、

人の気持ちとは分からないもの。

まったくもって、想定外だった。

でも、うれしい。

非常に、うれしいよ。

今まで、向こうからこんなにアクションをしてくれた人が

あっただろうか?

、、、いや、なかったね。

でも、それは昨日までの長女。

この日から長女は変わるのだ。

「ぼっち生活」から

「お友達がいる生活」になるのだ。

もう、気持ち的には、お赤飯祭りしたいくらいの

私の喜びよう。

 

そこへ、長女が一言った。

「でもね、ママ。

○○ちゃんと、どうやって、お話したらいいか分かんない」

困っているようなので、私は気楽な感じで言った。

 

「なんでも、いいのよ。

おはよう、とか。

今何してるの?とか。

とにかく話しかければいいのよ」

 

ところが長女はそう聞いても、困ったまま。

「わたし、話しかけられない、、、。

どうしよう、、、」

長い長い、ぼっち生活で、

歌を忘れたカナリヤのように、

長女はお友達との交流の仕方を忘れたようだった。

あーあー、、、。

 

ちょっとかわいそうな気もしますが、

相手が前向きにちょっかい出してくれている以上、

なんとかしてくれるのではないかと、

私は思うことにした。

 

「○○ちゃん、前はよく家に遊びに来ていたし。

幼稚園の時には、一緒にクッキー作ったりしてたじゃない?

誘ったらいいよ。

ママはいつでも、準備してあげるから」

そう言っても長女は、

「みんな、習い事とか塾とか、忙しそうだしなー」

と相変わらずの、消極姿勢。

うーん。ちょっと、むずいな。

あまりにも、ぼっち生活、長すぎたか。

そこでもう、この方法にしてみた。

 

「むこうから話しかけてくるのを待ってたら、いいんじゃない?

だって、からかってくるぐらいだもん。

なんかしゃべってくるかもよ」

その提案には、長女も納得し、

晴れて、今日の人生相談は終了とあいなった。

夕方、再び担任の先生からご報告があり、

長女と同じ話をしていただき、

相談は終了とあいなった。

 

いやはや。

人の気持ちってわっかんない。

まさか、まさか、だった。

でも、今から思えば、

そりゃ、そうだわな、

と思い当たる節があるのも事実。

 

先生のプリントの、児童をほめる記事で、

相手のかわいい子は、いつも、

長女のした行動(例えば配りもののお手伝いとか)

を見て、真似しているような文が多く載っていたのだ。

 

なるほど。

そういうことだったのだね。

 

自分以外の人のことなど、

分かりっこない。

それを分かっていても時に、

それを忘れて、あーだこーだと

悩み続ける。

でも、明らかな態度以外は、

自分のかたよった主観があることも多いもの。

気の回しすぎで、疲れたり、

被害妄想で、すねたり。

そうしたことがあるのが、人間関係というものなんだよね。

今回の件でよーく、分かった気がする。

 

どうせまた、近いうちに、

私の事だから、忘れちゃうのかもしれないけれど。

出来るだけ、覚えておくように

努力しておきたいと思う。

 

人の気持ちは分からない。

それは、悪い方向に転ぶこともあるけど、

それは、良い方向に転ぶこともあるのだと。

いつも自分の偏った見方でなく、

客観的な視点で考えることもまた、

大切なのだということを。

 

こうやって、学んでいくのだ。

育児をしていく中で、

今まで知らなかったいろいろなことを、

実体験として学んでいくのだ。

 

だから。

ありがとう。

いろいろな学ぶ機会を与えてくれて。

私の大切な、二人娘さん。

 

【イベント】家族で温泉旅行

 

新幹線で隣の隣の県まで、

温泉旅行に行ってきた。

なにか目的があってその場所に行ったわけではなく、

「ホテルの宿泊割引券(85%オフ)」をもらったので、

行ってきたというわけ。

初めての温泉旅行。

二人娘にとっては、初めての温泉体験だった。

 

実はこの旅行に行くのに、

ちょっと懐疑的だった私。

その理由は、温泉ホテルに泊まる以外に、

なんの観光目的もなく、

ただ「もらった割引券使わないともったいない」

というだけで行こうとしていたから。

車で行ける範囲なら、とくに反対派しない。

でも今回は、遠いのでどうしても、

新幹線を使わざるを得ないのだ。

正直、新幹線代がかかってまで、

観光のない旅行する?

という思いがぬぐえなかった。

 

正直にそれを主人に言うも、

せっかくだから、との言葉で却下。

しかたなく、しぶしぶ行くことにしたのだ。

それはおそらく態度にも出ていたのだろう。

主人が全部、時刻表を見ながら、

計画をしてくれた。

私は黙ってそれを、

こなしていくだけだった。

 

「旅行中は喧嘩をしない」

そういうルールを自分自身に決めている私でも、

今回ばかりは、無理かなと思いつつ、

参加した旅行なのだ。

 

そんなこんなで始まったのだが、

結果から言えば、楽しかったのだ。

最初の新幹線「さくら」は初めて乗るものでしたし

子供たちもゴールデンウイーク以来の県外の新幹線旅行。

いやがおうにもテンションが上がっていった。

そして早めについたホテルで、

「暇だから、温泉入ってこよう」

との主人の言葉で、二人娘と温泉に入ったのだが、

これが良かった。

 

サウナあり、ジャグジーあり、露店風呂あり。

「これぞ温泉!」といった風情の広々とした大浴場で、

お昼時なのでほかの人が誰もいなくて、

貸し切り状態で、大きな浴槽でゆーらゆらと動き回ったり、

ジャグジーで足裏とか腰とか、

マッサージ機感覚で、ジェット噴射の水圧を利用したり、

めったに入らないサウナにも、

二人娘が興味津々だったので、

一緒に入って、そのあと、水風呂に入ったりして。

露天風呂では、「わー外だー」との高いテンションの娘たちと、

少し熱めの湯船につかり、

その風情をしっかり堪能した。

 

長女はのんびり露天風呂を楽しみ、

次女は「水風呂サイコー」とはしゃぎ、

私は、何度も各地の温泉に行ったはずなのに、

二人の楽しそうな様子に感化されて、

温泉っていいな、としみじみとした。

次女が、「旅行の楽しみが分かってきた気がする」

などと、小4とは思えない味のある言葉を出すものだから、

「しょうがないな、また旅行に連れて行ってあげるか」

などと思ってしまった。

後で主人にそれを言うと、

「しっかり節約しないとな」

と釘を刺されたが、

それでもいい経験をしたなと思った。

 

二人がまだ幼稚園児だったり、

園児前の幼児だったころは、

いろいろなところに行きました。

アンパンマンミュージアムには3回くらい行ったし、

ボーネルンドにも連れて行ってあげたな。

ただただ、子供がアンパンマンに会えるのを眺めるのが楽しくて。

別に誰かに言うとか、そういうのはなくて、

子供の笑顔がなによりのご褒美だったものだ。

大人には分からない、子供のアンパンマン愛。

分からないからこそ、大事にしてあげたい気持ちだと、

そんな風に思っていた。

 

今回の温泉旅行は、

大人になればいつでも行ける、

手軽な観光の一つです。

ものすごく特別なことでも、

一生かかっても出来ないような、

重いものではなく、

気持ちをリフレッシュさせるくらいの

ものだと思う。

 

でも、それは大人にとっての事。

子供にとっては、初めての温泉で、

こんなにたいさんのお風呂に、

一度に入ることもないし、

ましてや「あっつーーーいーーー」

といいながらサウナから水風呂に入ることもない。

それだけにきっと、

心の中に強く印象に残っていくことだろう。

 

小説でも映画でも、

それをみる時期によって、

感じ方が変わるもの。

子供なのか、学生なのか、社会人なのか、家庭を持ってからなのか。

それによって、同じ作品でも、

どの登場人物に感情移入して、

どの場面で感動して、

どういう感想を持つのかは、

ずいぶんと変わってくる。

 

きっと今回の温泉旅行も、

二人にとっては「子供時代」に行ったことが、

なによりの楽しみスパイスになったことだろう。

 

大人になってから出来ることでも、

子供のうちに体験するから事、

得られる知見がある。

私の幼少期に、親がせっせと「牧場」に連れて行ってくれて、

アスレチックで遊ばせてくれたことは、

今でも強烈に心に残っていることなのだ。

その印象深い思い出を、

私と主人とで、作ってあげたいと思う。

 

最初はしり込みしていた、割引チケットの温泉旅行。

楽しかったから、それを素直に主人に伝えた。

主人は「そうだろ?」とも言わず、

「だから行こうって言ったじゃないか」とも言わず、

ただちょっとうれしそうに、してくれたように、見えた。

 

終わりよければ、すべてよし。

そういうことに、しておこう。

次の旅行目指して、せっせと節約生活をしていこうと、

決意した私なのであった。

 

 

 

【教育】本の購入について

 

最近の私の決意表明。

それは、「本を購入する!」ということ。

それも、「必要な本は絶対に購入する!」ということ。

「それが、なに?」

という疑問符が、あちこちから飛び出してきそうだが、

とにもかくにも、

そう決めてしまった。

それは具体的にはどういうことかというと。

 

ここ数年程、節約に励んでいた私。

子供たちに「今月の本」というルールを決め、

毎月1冊、好きな本を買ってあげていたのだ。

しかし、1冊ではどうしても、「この漫画の1巻のみ」とか、

少々物足りない感じだった。

それがうすうす分かってはいたものの、

どうしても本の購入資金は後回しにしてしまい、

食費だとか子供服だとか、

予算はそういうものに振り分けられていた。

 

そして気が付けば、長女は小6、

来年はいよいよ中学生になる。

そこではたと気が付いた。

「今の時期、小学生のうちに読ませたい本、

節約の為に買わないで来たけど。

もうそろそろ、

年齢的にアウトになっちゃうんでは?」と。

 

実は私、自分の子供の頃に夢中になった本があった。

「こども百科」という数十冊の図鑑のようなシリーズもの。

これでもか、これでもか、と読みまくった。

今は実家にあるのですが、ものすごく傷んでいる。

でもそれは、擦り切れるほど読んだ証拠。

いうなれば、私の勲章のようなもの。

誇らしさすら、覚えるのだ。

 

つねづね私が思っているのは、

「きれいに保存される本があってもいいとは思うけど。

私は、本を使い倒して、自分の血肉にしていきたい」ということ。

本の内容が自分の人生に入り込んでこそ、

その本の読んだかいがあるというもの、

だと思っているのだ。

もちろん、大好きな作家さんの本など、

きれいに保管しておくのもいいと思う。

 

でも知識を取り入れる系の本は、

じゃんじゃん読みまくるのがいいのではと、

私自身は思っている。

 

そうして、自分の子供時代を思い返してみて、

やはりここは、お金の出しどころではないかと、

思い始めた。

このまま長女が中学生になり、

私のおすすめ本を読まないまま大人になることに、

かなりがっかりする予感しかなかった。

 

それならば。

後からかなり落胆するならばと、

腹をくくって、本を購入することに決めた!

その購入する本の種類は以下のような感じ。

では、どうぞ。

 

その1、

「ネオ、こども図鑑シリーズ」

 

こども百科のような本が欲しいと思い、

探してみたところ、

小学館から出ている、「ネオ、こども図鑑シリーズ」があった。

これは見本があったのでいくつか見て見て、

内容もかなり面白く、分かりやすく、

これはいい!となった。

小学校の入学前の子供向けみたいなのだが、

少々の表現の幼さはあれど、

内容は大人が読んでも興味をそそられるもの。

これなら、と思ってまずは3冊購入した。

 

買ったその日から次女が読み始め、

「この本、おもしろーいー!」

と夢中になっていた。

毎日毎日読んでいて、

「ひまな時はこれ読むわー」

と言ってくれていた。

 

いやー、うれしいのなんのって。

母親冥利につきるわ。

そして何より、読んでいる姿を見ていると、

幼いころ、こども百科を夢中で読みまくっていた頃の自分と重なり、

「ああ、親子なんだなあ」

と思わずにはいられなかった。

私の実家の母も、こうして楽しく本をあたえてくれていたんだなあと、

親への感謝を感じずにはいられなかった。

 

その2、

「かぐやさまは告らせたい」

「スパイファミリー」

「推しの子」

 

漫画の分野も、

本人が興味があって、ある程度の人気作ならば、

読んでいて損はないだろうと思い、

出来る限り購入していこうとしている。

「なぜ、漫画まで?」

と思う方もおられるかもしれないが、

漫画って、侮れない。

 

実は私、子供の頃はわりと、語彙力があって、

それはほとんど漫画から教えてもらったもの。

難しい言葉を「勉強」だと思うと面倒ですが、

「漫画のセリフ」だと思うと、

そのまま楽しく覚えて、忘れなかったりする。

楽しいことは、記憶に残るもの。

 

小難しい本ばかり与えても、

子供本人に興味がなければ、

一向に読んでもらえない。

そして下手をすると本自体が、

難しくていやなもの、になってしまう可能性もある。

 

それは非常にもったいないのだ。

大人も子供もお互いに歩み寄る。

その姿勢が大事かなと思っている。

 

何を隠そう私の母は、大の「ガラスの仮面」ファンで、

私が小学生の頃押し入れに隠していて、

私、みつけちゃったのだ。

そして観念した母が出してくれたのだが、

かなりの数を所有していることが判明。

 

子供ながら半ばあきれながら、

でも一気に現れたその面白い漫画を、

私も夢中で読んだのだ。

面白い本に、大人も子供もない。

そんな風に思ったことを、思い出す。

 

その3、

「小学校って、こういうところ」

「ちゅうがっこうって、こういうところ」

「学校へいきたくない君へ」

「片付けのできる本」

 

うちの二人娘はなかなかコミュニケーションが苦手。

なので、いろいろはハウツー本も購入している。

本音は「くまなく読んで」と言いたいところだが、

あまり押し付けては逆効果なこともある。

「こんな本、買ったよー」

といって机にぽんと置いておけば、

ひとまず、一回は手に取って、

ぱらぱら開いてくれたりする。

めくっただけで読んでくれなくても大丈夫。

気になったなら、またしばらくして、

一人で読んでいる。

それでいいと思っている。

 

子供は、あまのじゃく。

それを分かってさえいれば、

情報提供するだけで、

なにかしらの手助けになっているような気がするのだ。

 

その4、

「漫画 日本の歴史」

「残念な日本史」

「ざんねんな生き物図鑑」

 

この手のお勉強系の本は、

あまり私の子供の頃には家になかったように思う。

でも今はこういうのが流行していて、

わりと面白いので、

楽しいから買ってみた。

 

小6は歴史の授業も始まるので、

まあ、なにかしらの良い影響があればいいかなと

思っている。

 

 

と、まあ、いろいろ買っている。

たまに「買いすぎ?」とも思うが、

家計がひっぱくしない限りは、

ある程度、思い切って、購入しようと思っている。

 

「小学校時代をどう生きるか、なにを学ぶか、なにを考えるか」

それが何より大切だと思っている。

 

このブログのタイトルに「遊び」と「学び」の文字が入っているのは、

それが明確に分かれているからではなくて、

小学生時代は、遊びも学びも混在して、

わちゃわちゃとしているから。

 

遊びながら、学び、

学びながら、遊ぶ。

その両輪がそろってこそ、

楽しい小学校生活になると思っているのだ。

 

だから。

パパに怒られない程度には気を付けるけど、

長女が中学になる前まで、あと半年は、

ちょっと思い切って、

必要だと思う本は、

購入していきたいと思っているのだ。

 

【イベント】地元の実験イベント

地元の公的な施設のイベントに行ってきた。

小学生向けの実験教室のイベントだ。

去年も、他の学校ではあるが、

「手作りエコ扇風機作り」に行っていて、

こうした体験は楽しいだろうと思い、

自転車とJRとで、

えっちらおっちら出かけてきた。

 

今回のイベントは、地元の理系の大学が取り仕切っていて、

学生さんらが6、7名ほど頑張ってされていた。

二人娘も年の近い大学生さんたちの行う実験を、

興味深々で見ていた。

特にこの実験イベントに申し込んだ長女は興味深そうに、

実験内容を見ていた。

 

実験のテーマは「ドライアイス」。

ドライアイスを水に入れたり、ジュースに入れたり、油に入れたり。

黙々と出る水蒸気の色や、

水蒸気が出るのか出ないのかとか、

クイズ形式で行っていて、

二人は楽しそうに参加して、

手を挙げていた。

当たった時はうれしそうに、

私に「当たったよー」と教えてくれたりもした。

 

他にも、机の上にドライアイスの塊を置いて、

手で、すーっと押して、

まるでエアホッケーのようにして、

遊んだり。

ドライアイスの蒸発する成分により、

机とドライアイスとがくっつかず、

滑るのだと教えてもらった。

 

また、粉々に砕いた砂状のドライアイスを、

手に取り、すぐに、頭上に投げて、

落ちてくる前に蒸発してなくなる、

というのもした。

それはまるで、冬のスターダストのようで、

なんだかとてもきれいだった。

あんまり楽しいので、

二人とも何度もドライアイスのおかわりをして、

何度も頭上に投げて遊んでいた。

 

最後はカメラのフィルムケースにぎゅうぎゅうに

ドライアイスを詰め込み蓋をして、

床に置き、紙コップで覆って、

爆発させる、というのをした。

結構な爆発音で、ちょっと怖かったのだが、

いつもは出来ない「ザ・実験」という感じで、

何事も経験かなと思った。

 

こうした実験は、なかなか、

自宅では難しい。

でも一度だけ、自宅で似たようなことをしたことがある。

 

それは、自宅で子供と保護者を招いて、

夏に遊んでいた時のこと。

数十名がいたのだが、

中に、アイスを持ってきてくれた方がいて、

その中に、ドライアイスが入っていた。

 

私は幼少の頃、よくドライアイスを水に入れて遊んだ。

昔はわりとドライアイスをもらうことも多く、

水中でぶくぶくするのが楽しくて、

今でも楽しい思い出。

そんなことを思うと、

子供達にもなにか楽しませてあげたいという気持ちが、

むくむくと起きてきた。

 

そこで私がしたことは、

水の中にドライアイスを入れて、

子供たちに質問したのだ。

 

「この水の中に、かき氷のメロンシロップ(緑色)を入れたら、

この煙は何色になる?」と。

「白いままだと思う人」

「緑色になると思う人」

それぞれ聞いて、どちらも手が挙がり、

子供たちが興味を持ったところで、

シロップを投入。

 

結果は、煙は白いままだ。

私の予想通りですが、

子供たちは「わあっ!」となって、

この小さな実験は、

子供たちにほんの少しの楽しみを

与えることが出来たようだった。

 

ママさんの中には、

「シロップがもったいない」

と言う方もいたが、

ほんの少したらすだけだし、

我が家の私物なのだし、

何より、今しかできない実験の効果を思うと、

少々のことはいいではないかな、

と思った。

 

夏の日の小さな実験。

それはきっと、楽しい思い出になるだろうと、

そう思ったのだ。

 

二人娘に、自宅でのその思い出の事を聞いてみた。

庭のプールに入った時、なんとなく、

「家でドライアイスの実験したの、覚えている?」と聞いてみると、

「覚えてなーい」

と二人ともが、すっかり忘れているとのこと。

 

「じゃあ、庭のプールをみんなと入ったことは?」

と聞くと、こちらも、

「うーん、あんまりよく覚えてなーい」

とのこと。

私は、ずっこけそうになった。

 

ドライアイスの実験はともかく、

何度も何度もしたはずの庭プールさえ、

はっきりと覚えてはいないとは!

 

でも、考えてみたら、当時は、

長女でさえまだ小2、次女に至っては年長さん。

しかも3年以上も前のこと。

仕方ないのかもしれない。

とほほとは思うが、

二人に落胆するわけにはいかない。

そういうものなのだろう。

子供って。

 

そう思うと、

まあまあ、そうか、

と納得するしかなさそうです。

 

それでも、

自宅でのみんなが集まってのパーティーの記憶は

けっしてゼロではなくて、

いろいろと質問してみれば、

たまには覚えているものもあるみたいだ。

それで、いいのかもしれないね。

それ以上は、望まなくていいのかもしれないね。

 

地元の実験イベントも、

あっつい中、自転車こいで、JR乗って、

かなりの労力を使って、行ったわけだ。

果たして3年後に、

どれほど覚えているのだろう。

それは今は分からない。

 

でももう、それは、

それほど重要ではないのかもしれない。

「昨日は楽しかった!」

と今は二人が楽しく思っている。

 

それでいいのかもしれない。

いつかなにかの拍子に思い出したら、

もうけものなのかもしれない。

 

大切なのは、折角行ったのだから、

それを活かしてほしい、と思う事ではなく、

将来、自分が何か活動するときの、

目には見えない力になること。

それを蓄積すること。

そんな風に思えてくる。

 

役に立たない何かが、

気づかないうちに役に立っている。

そんなことが人生には、

わりと多いような気がするのは、

私だけなのだろうか。

 

それでも人生は楽しい。

そう二人が思えてくれたら、

そのために私の行動が役にたっているかもしれないなら、

それでいいと思えるのだ。

ママを楽しもう!

 

 

 

【イベント】夏祭りに行く

先日の土曜日に、うちの二人娘はパパと一緒に、

近所の夏祭りに出かけた。

疫病の影響でここ三年ほど見送っていたお祭りだが、

ようやく開催することができたよう。

全国的にも夏祭りや花火大会があるようで、

夏の賑やかさが戻ったようでうれしいね。

たしかに祭りの中止はさみしかったが、

こうして開催の喜びを実感できるという経験ができたことを思えば、

それなりに何かを残してくれたのかとも思ったりもする。

 

今回の夏祭りは久しぶりと言うこともあり、

二人とも洋服での参加となった。

「浴衣着たい?」

と聞いたところ、次女が、

「好きなお洋服を着ていきたい」

と言ったことも考慮した。

 

どうやら、洋服と帽子とバックと靴を、

トータルコーディネートして行きたいらしい。

後から聞いたら、長女は浴衣でも良かったらしい。

うーん、二人ともそれぞれ考え方はあるのだね。

来年は浴衣の良さ、浴衣ならではのコーディネートの

かわいさを教えてあげて、

是非、日本の輪の文化を楽しんでもらいたいなと思う。

 

そうしてパパと二人が出かけて、

私は一人でのんびりした。

夕方までに、行ったところと言えば、

郵便局、図書館やスーパーくらいだが、

なんとなくゆっくりしたかったのだ。

 

「小学校最後の夏休みだから!」

と鼻息荒く、地域のあらゆる小学生イベントに申し込みをした長女。

半分くらいは抽選に外れたものの、

半分くらいは当選したので、

あちこち、平日にかけまわっている次第。

車があればスイスイなのかもしれないが、

あっつい中、えっちらおっちら、自転車で移動するのだ。

時には、電車も使って、遠い道のりを行く。

 

ということで、今回の夏祭りは、

平日子供とふれあっていないパパにお願いをした。

 

子供だけでは近所の夏祭りは参加できないので、

パパが連れて行ってくれた。

ヨーヨーをしたり、スーパーボールすくいをしたり、

いろいろ楽しんだようす。

一緒に行った男の子が金魚すくいをめっちゃ取っていたと

パパが驚いたように教えてくれた。

あの子、すごいわ。

普段あまり人をほめないパパが、

感心したように話してくれた。

 

うちの子は、一人2つ、3つくらいで、

それでも自分が取ったヨーヨーがうれしいようで、

私に見せてくれた。

 

コロナの前は、子供会が食べ物の露店を用意していた。

かき氷や枝豆など、工夫して用意してくれていた。

でも準備がとても大変なので、

以前からその必要性が問題視されていたのだ。

そこにきてのコロナでの夏祭り中止、3年間。

正直、夏祭りの露店をしないことで、

助かるママさんたちも多かったように感じる。

 

今年から再開した夏祭りだが、

来年からはどうなるのか。

子供会の露店は再開するのか、中止になるのか。

気になるところ。

ただどのような形にしても、

夏祭りを楽しみにしている子供、

そしてママさんたちが、

無理なく楽しくできる行事であってほしい、

誰かがしんどい思いをしないといけない

ということがないようにと、

そんな風に思っている。

楽しむことが一番の目的なのだから。

 

私が子供の頃、今ほどはおもちゃもゲームもなく、

近所の夏祭りはとても楽しみな行事でした。

お面や綿菓子、飴におもちゃ、かき氷にジュース。

色んな露店が軒を並べ、

見ているだけでわくわくしたもの。

 

お店が多いので、気を抜くと、

祭用にもらったお小遣いはすぐに底をつく。

だから慎重に、慎重に。

欲しいものと、その金額とを計算して、

あまり慎重になりすぎると祭りが終わってしまうので、

時間もしっかり考慮して。

わくわくとドキドキの中、

自分だけの予算を自分だけで消費する楽しさを

覚えたものだ。

 

あの頃、私は浴衣を着ていたのだろうか。

あの頃、私は何を好んで買っていたのだろうか。

あの頃、誰と祭りにいったのだろうか。

あの頃、どんな空気感だったのだろう。

 

すべての事を鮮明に、

思い出すことなど、もうできない。

そしてその必要性も感じてはいない。

ただ言えることは、

「小学生の近所の夏祭りは楽しかったんだ」

そう思い切り言えることが大切なのだ。

 

たとえば、友達とちょっとうまくいかなくても。

たとえば、かき氷をちょっと地面に落としたとしても。

そんなことの、ひとつひとつが、

きっと楽しい思い出となるのだから。

大切なのは完璧に素敵な夏祭りの自慢話ではなく、

なんでもないけど胸に残る暖かな気持ち。

 

「いーわねえ、娘さんが一緒に来てくれて」

と近所のおばさんに言われて、

まんざらでもないふうの母の態度を、

今でもなぜか覚えていたりするのだ。

私は母が大好きだったから。

とてもうれしかったのだ。

 

「どれにしようか、迷うー」

と露店の前にしゃがみこんで、

どのアメにしようかと真剣に悩んで、ようやく、

きれいなスカイブルーのアメに決めた時のうれしかった気持ちとか。

優秀普段な自分が好きなものを選べたからとか。

とてもうれしかったのだ。

 

夜の8時を過ぎて、

3人が帰宅してきた。

「花火が上がったのー、きれいだったー」

と教えてくれた。

置き型の花火中心だったけれど、

何発かは打ち上げるものがあったらしく、

近所の夏祭りも頑張っているようだった。

 

「くじびき、当たったのー」

そう言って、もらった景品を見せてくれた。

子供会でもらった夏祭りのチラシについている番号で、

どうやら3等が当たったらしいのだ。

 

中身は、洗剤やらラップやら、ゴミ袋やら。

主婦向けのものばかりだったが、

当たったことがうれしかったようだ。

 

つかれた、つかれた、言っていないで、

一緒に行ってあげれば良かったかな。

ちょっと反省したりもした。

でもひとまず、二人娘は楽しんだ模様。

なので母としては、これはこれで良かったことにしよう。

 

完璧には出来ない小学生の子育て。

ひとまず、皆が笑顔なら、それで良しということにして。

 

 

【調理】長女の朝食作り

先日は長女が家族のために朝食を作ってくれた。

その様子を少しお話。

 

出来上がりは、下のような感じ。

果物だけは私が用意しましたが、

後は全て長女の考えた献立。

 

ほうれん草がなくのでキャベツにしたり、

しめじがなかったのでエノキダケにしたり、

微調整は私がお願いしたものの、

あとは長女が自分一人で考えたもの。

 

 

材料は、こんな感じ。

ありあわせの、キャベツ、エノキダケ、ウインナーを使って、

コーン缶とロールパンだけは足りないので購入して、

用意した。

 

 

自慢じゃないけど、ものすごく手先の不器用な長女。

私は鉛筆削りをカッターで、すいすいっとしていたのだが、

長女はカッターだの包丁だの、刃物が代の苦手だ。

「こわーい、こわーい」

を連発して、正直、

「ここはまだ、怖いところじゃないんだけどなー」

と思ってしまう。

 

例えば、ウインナーを2つに切るのなんて、

「そんな難しいものなの?」

と思ってしまう、私としては。

それでも本気で怖がっているので、

「がんばれー、すぐ切れるよー」

と応援して、なんとか切ってもらう。

 

キャベツなんかさらに大変で、

「あーあー、むずかしーいーよー」

と、手よりも口の方がよく動いていた。

確かにキャベツはちょっと切りにくいかもしれないけれども。

私としては、怖い怖いと、叫ぶほどではないんじゃないかなー、

と思ったりもする。

それでも、キャベツを切らないと先へ進めないので、

「大丈夫だよー、切れてる、切れてるよー」

とひたすらに声援を送るのだ。

 

「この子、小学6年生なんだよな?

来年、中学生なんだよな?

調理実習、大丈夫かいな?」

と母親としてはかなり心配が大きくなっていく。

しかし、時は止まってはくれない。

半年後にはいやがおうにも中学生になるのだ。

そう思うと、

「今回の朝食づくりは、いい勉強になる」

ということで、中学に向けて練習しているのだと

自分に言い聞かせ、応援していった。

 

キャベツとコーンとエノキダケをフライパンに投入して、

フライパンを振ることを教えた。

最初なので、サラダ油は私が入れて、

材料を長女に入れてもらい、

あとはフライパンを振ってもらった。

途中で長女が、

「ママ!塩こしょう、してっ!」

と言うので、言われるままに振り入れて、

キャベツがしんなりしてきたら、

ガスを切ってもらった。

「ふーうー、できたー」

長女の心からの安堵の声が漏れて、

なんだかかわいかった。

なんだかんだで、

長女は調理を楽しんでいたようだった。

 

今回の調理は金曜日の8時頃だったので、

主人がいないので、実食は私と二人娘の3人で行った。

キャベツ炒めの味付けが、塩コショウだけなので、

実はそんなに期待していたわけではないのだが、

いざ食べてみると、なんだか、とっても美味しかった。

なんでだろう?と一瞬考えて、

「ああ、コーンの味が生きているのか」

とその理由に納得した。

それを狙ってのコーン缶なのかは分からないが、

結果としてはとても良かった。

 

作り主の長女は、

特にキャベツ炒めの大作にいたく感動して、

「おいしーいー!また食べたーいー!」

と絶賛していた。

しかし。

「ママー、材料まだあるから、今度作ってー」

と言われた時には、

うん、といいつつ、

またね、とお茶を濁してしまった。

私は人のルールを取り入れるのが苦手なのだ。

気分が乗れば作るかもしれないが、

その可能性は低いかもしれないなと、

思ってしまった。

 

お姉ちゃんの作った朝食を、

次女は完食してくれていた。

長女のように絶賛するわけではないけれど、

ぺろりと平らげてくれていることが、

なによりの高評価だなと思った。

いつも競争ばかりしている長女に対して、

ちょっと対抗心があったのかもしれないが、

美味しいキャベツ炒めで、

ひとまずそれは認めてくれたようだった。

 

「おいしいね、コーンがいいね」

と私が自然に誉め言葉を口にすると、

長女はうれしそうに

とってもいい笑顔を見せてくれた。

 

ほめるから、いい子になる。

いいこになると、またほめたくなる。

それの繰り返しになってしまえば、

いろいろとうまくいくのかもしれないね。

 

友達でも知り合いでも、

子供の友達でもママ友さんでも。

相手がだれであれ、

大抵の場合はほめるのが得意な私なのだが。

こと自分の家族に対しては、

なかなかと言えないのが難しいところ。

 

これが、誰か他人に対して、

「自分の家族をほめてください」

と言われたら、本当に立て板に水のように、

すらすらと出てくるのだが。

本人を目の前にすると、

ほとんどその能力が発揮されないので残念だ。

心の中で、こんなに愛しているのに。

 

いつまでも、そんな言い訳をしていても仕方がないね。

だんだん大人に近づいていく子供たちに、

ママとして誉め言葉をあげることを

不得意がっていてもだめだよね。

これからは、少しづつ。

ほめてあげたいなと思う。

決して上手に言えなかったとしても。

大人になってしまってから、

「子供のうちにほめとけばな」

なんて後悔しないように。

 

大切な家族たちに、

宝物の言葉をかけてあげたいと思っている。

 

【イベント】福祉のお仕事体験

先日、次女が療育の日で、送り出したあと、

長女と二人で福祉のお仕事体験に行ってきた。

これは長女が申し込んだもので、

地元のリハビリの専門学校が主催している、

「福祉のお仕事とはなんだろう」

というテーマで、小学生を対象に行っているもの。

 

具体的には、指を固定する器具を作ったり、

ギプスをはめて体験したり、

聴診器で自分の心臓の音を聴いたり、

立体パズルを組み立てたり、

といったことをした。

 

日頃から、福祉とか環境問題とか、

そういう、ちょっと公共的な利益のことに関心を寄せる長女。

自分のことよりも、どうやら、

みんなの公共の利益のことが気になるよう。

まだ小学生なので、

大きなことを行うことは出来ないが、

こうして体験に出かけることで、

自分の知識や情報を得て、

本物の器具や実際の先生方のお話を聞いて、

何かひとつでも売るものがあればいいなと

思っている。

 

大きなフロアに20人ほどの小学生と保護者。

そこに先生方が10名ほど。

3つのグループに分かれて、

時間もゆったりととっていただいていて、

あわてることなく、

しっかりと体験することが出来た。

 

最初は指の固定の器具を作った。

熱めの湯でプラスチックを温めてゆるめ、

それをハサミで装着部位に合わせて切り、

再度温めて、指に固定して形を整え、

冷えたらその形になる、というもの。

何度もあたためられるので、

何度も使えるそう。

そして、長女は人差し指に型をとり、作成し、

それを別の指にはめてもみて、

「なんか、違和感ー」

と、指の形に合わせることの大切さを実感したり

していた。

 

普段こうした本物の器具を作ることもないので、

貴重な体験だった。

私自身もこのような器具があること自体しらなくて、

「軽くて、空気も通す固定器具」

とは、とても便利なもんだなと感心しきりだった。

 

次に段ボールで手作りされた義腕を付けて、

実際に動かしてみた。

「腕を切り落とさなくてはならなくなった人用の義腕」

というお話を聞いた時は、

正直胸が痛んだ。

そして自分が普段何気なく動かしている腕が、

本当にありがたいのだと感じた。

 

長女が実際に段ボールを付けて動かしてみたのだが、

なかなか動かしにくかったよう。

物をつかんだり、物を離したり。

それだけでも大変なことだった。

実際の、段ボールじゃない、

本物の義腕も装着させていただいたが、

大人用だったこともあるが、

そのものも重いし、動かすのもかなり力がいるし、

これは大変だ、と思った。

それでもこれがあることで、

生活が楽になる方がおられる。

こうした仕事はありがたいなと感じた。

 

最後は聴診器で心音を聴いたり、

立体パズルを組み立てたりした。

心音は、長女はすぐに自分のが分かったのだが、

私のは結局分からずじまいでした。

私も聴診器をお借りして、

自分の心音を聴こうとしたのだが、

分からずじまいだった。

先生曰く「分かりにくい方もおられます」

とのことで、何回か試した後、

あきらめた。

 

立体パズルの方は、お手本の本をみながら、

その形になるように、

サイコロ型のパズルと置いていく。

ページをめくるごとに難しくなり、

4、5回目のころは、なかなか難易度が上がっていた。

それでも、チャレンジするのが好きな長女は、

「面白ーい!」

と言って、嬉々としてやっていた。

私も楽しく参加した。

 

今回は、福祉のお仕事体験だったが、

やはりこうした「お仕事を実際に見る」

というのは大切なんだろうなと思った。

主人が会社員ということもあり、

なかなか「仕事風景」を見せることが出来ない。

それだけに、こうした機会を利用して、

現場に触れることは、

小学生と言うまだ小さい娘にとって、

とても良い経験なのだろうと思う。

 

今すぐになにか、成果が出るわけではないのだろう。

もしかしたら、それはこの先数十年も

日の目を見ることがないかもしれない。

あるいは一生、こうした経験を糧にすることは

ないかもしれない。

なにもかもが都合よく、

経験の全てが、血となり肉となるとは

限らない。

もっといえば、たくさんの無駄な経験を

私たちはしていくのかもしれないと、

思っているのだ。

 

でも。

私は思うのだ。

たくさん、たくさん、うーーーんと、たくさん。

無駄なものを目いっぱいしていくことで、

その分母は広がっていき、

広がれば広がるほどに、

可能性も上がるのだと。

 

ゼロに何をかけても、

ゼロにしかならないように。

なにも経験しなかったら、

それはゼロのまま。

 

それを、ゼロから1にして、

答えを1にしていく。

それを、1から2に増やして、

答えを2倍にしていく。

そうして増やしていくことで、

なにかが変わっていくのだと、

そんな風に思うのだ。

 

大したことは出来ないママ。

でも、可能性を広げるものがあるならば、

可能な限り、広げてあげたいと思う。

「大したことないママだから、こそ」

 

子供たちの未来を、

わくわくするものに、

してあげたいと思っているのだ。