今週のお題「芋」
今は小学生の2人の娘が、幼稚園にいたころの事である。
その園では、毎年、園庭に枯葉や枯れ枝を積み上げて、
焼き芋を作り、園児や保護者にふるまっていた。
園の卒園生もまざることもあり、
地域に根付いた行事であった。
しかし、ある年の秋に、降園時に保育士さんから保護者へと、
「枯れ枝が足りないので協力してほしい」
とのお願いがなされた。
どうやら、いつものミカン狩りの際の枯れ枝拾いが、
あまりかんばしくなかったらしい。
本当に困った様子で、頼んできたのである。
そういえば。
昨年の焼き芋は少し、芯が残っていた。
毎年の行事なので、何度も食べているが、
あんなに芯がある芋は初めてであった。
「そうか。だから焼きが甘かったのか。
枯れ枝や枯葉が足りないから、
火力が足りなかったのか」
と一人納得していたのである。
さて、どうするか。
周囲のママさんたちはやはり、
枯れ枝や枯葉など、無縁の様子。
それはそうだ。
皆集合住宅だったり、
一軒家だったとしても、
住宅街の50坪ほどの家なのだ。
そんな農家さんのようなリクエストをされても、
どうもしようがないというもの。
そして、さらに聞こえてきたのが、
例年枯れ枝をもらっていたお宅から、
もらえなくなったのだとか。
それは、えらいこっちゃ。
今年も前年のように、
少し芯の残った焼き芋で我慢するか。
それでもいいのだが、
やはり、おととしの、
美味しい焼き芋の味が忘れられない。
小ぶりながら、しっかりアルミに包まれた芋は、
開けるとふわっと湯気がたち、
どうしようもなく美味しかった。
「あっつい、あっつい」を連呼しながら、
そばにはまだ未就園児や赤子を連れたママさんたちと、
なごやかに芋を食べた楽しい思い出。
それはやはり、
あのねっとり、しっとりした、
焼き芋でなければならないと、
私に思わせたのである。
どうにかしたい。
俄然、ヤル気になった私は、
保育士さんの所に行き、
「うちの家の生垣の枯葉が、
毎年すごくあるんです。
良かったら、焼き芋用に使われますか?」
とたずねてみた。
すると保育士さんの顔がぱあっと明るくなり、
「ありがとうございます!助かります!」
と嬉しそうな声で答えてくれたのである。
「よかったです。でも車がないので、
持って来ようがなくて、どうしましょう?
土日なら、園に持ってこられますが、
置いておいてもいいですか?」
そう尋ねると、
「すみません。
園には、火が付きそうなものは置いておけないのです。
車がないのでしたら、
私たちがお宅に取りに行きますよ」
とのお返事で、後日取りに来てくれた。
そしてうちに取りに来てくれた保育士さんは、
ゆうに20袋はあろうかという枯葉のごみ袋の山を見て、
一瞬、言葉を失っていた。
「これ全部、持って帰れってか?」
そうはいっていないが、
表情はそう語っていた。
「全部は持って行かなくていいですよっ!
必要な分だけでっ!」
あわてて気を使って私が言うも、
一旦引き取りに来たからと、
保育士さんも引き下がらない。
結局、全部車に積んで、幼稚園に運んでくれた。
私の家の駐車場はすっきりしたけれど、
自分の車に枯葉の山を積んだ保育士さんの気持ちはいくばくかと、
少々気になっていた。
しかし、持って行ったものはもう、
どうしようもないのである。
翌日、無事に焼き芋は焼けていた。
もくもくと白い煙を上げて、
昨年にはない長時間の焼き時間で、
しっかりと私の家の枯葉たちは役目を果たしてくれたのである。
うちの娘も、近所の人も、
みながうれしそうに焼き芋をほおばっている。
「どうぞ」
と保育士さんが勧めてくれたので、
私もひとつ食べてみた。
これ、これ。
ねっとり、しっとり、
きれいな黄金色のほっかほか焼き芋が、
その甘さを存分に発揮してくれていた。
やはり、しっかり焼けた芋は美味しい。
我ながら、良いことをしたと上機嫌でその日を過ごした。
さて、翌年。
どうやらまた枯れ枝や枯葉が足りないらしい。
そして、私は、
「枯れ枝や枯葉、今年もありますけど?」
と聞いてみた。
「大丈夫ですよー」
保育士さんが言うので、
なんとか都合をつけたのかと、
ちょっぴり残念に思いながら、
納得していたのである。
ところが、その年の焼き芋はまた、
芯が残っていたのである。
どうやら、また枯れ枝が足りなかったらしい。
しかし、私の家の枯れ枝ゴミ袋は、
必要ないらしい。
うーん。
そういうことか。
保育士さんの自前の車に、
枯れ枝を、これでもかと詰め込んだため、
そのきれいな車が、
おそらく汚れたのではないかと。
だから、必要な分だけでいいと言ったのに。
全部詰め込んだのは、保育士さんだよ、と。
誰にともなく言い訳をして、
自分の心を納得させた。
小さな親切、大きなお世話?
焼き芋の季節になると思い出す、
ほろりと苦い、幼稚園の思い出である。