おとといから修学旅行に行っていた長女が、
昨日の夜に帰ってきた。
初日の宿泊先の旅館で、
頭痛と腹痛を訴えて、
結果的に嘔吐もした長女。
心配していたが、
小学校に迎えに行った時は、
割と元気だったので安心した。
翌日は、10時20分から40分までの間に登校すれば良いとのこと。
だから、朝はのんびり朝寝坊していた。
疲れたもんねえ。
仕方ないよねえ。
寝かしておいてあげようねえ。
ということで、
主人も私も何も言わず、
寝るのに任せていた。
ゆっくり体を休めてくれればと、
思っていたのだ。
でも、次女はつまらなかったようだ。
長女が修学旅行に行ってからと言うもの、
けんか相手がいないせいか、
ユーチューブばっかり見ている次女。
あまり見すぎると目に悪いからととめても、
一向に言うことを聞かない。
長女がいなくて退屈していることが分かっているから、
こちらも何も言えなくて。
結局次女のすきにさせているという状態が続いていた。
それでも長女が帰宅してからは、
たぶん、次女も、
やっと、おねえちゃんと朝ごはんを一緒に食べられる、
登校前に、二人で、わちゃわちゃ出来る、
と思っていたのだと思う。
それなのに、「ゆっくり10時過ぎ登校」だというもので、
ちょっと肩透かし状態だったのだろう。
ひとりで朝食を食べていた次女が、
ふいに、皿洗いをしている私に声をかけてきた。
「ママ、早く、朝ごはん食べなさい」
最初は私も、
「ちょっと、いろいろ、やることがあるから。
それが済んでからね」
と言ってから、布団を畳んだり、洗濯をしかけたり、
しようと動き始めた。
でも、すぐに、気が付いたのだ。
「あっ、そうじゃない。
私に早く食べろと言っているのは、
自分がひとりで食べたくないからだ!」
そのことに気づいて次女の方を見ると、
とっくに食べ終わっている時間なのに、
唐揚げを一つ、ミカンをそのまま、残して、
私を待っているのだ。
「早くしないと、唐揚げ食べちゃうよー」
そう言って、ちょっとすねたようにして、
早く早くと、せかしてきた。
そうか。
そうなんだね。
素直じゃない次女は、そのまんまを口にできない。
おねえちゃんが遅い登校で、
一緒に朝ごはん食べられないから、
ひとりでは寂しいから、
ママと一緒に食べたいのだと、
そんなふうには、素直に言えないのだね。
昨日も、おとといも、
次女は何も言わず、ひとりで朝食を食べていた。
どうせおねえちゃんは、修学旅行に行っているのだからと、
たぶん、あきらめがついていたのだろう。
そして、たぶん、最初はひとり朝食も我慢できただろう。
それが。
今日はやっと、一緒に食べられると思っていたのに、
それが叶わず、ひとり朝食が3日目にもなり、
もう耐え切れなくなったのだろう。
私への朝食の言葉は、
そういう事だったのだと悟った。
そうして、すぐに次女のもとに行き、隣に座り、
私はいつものお茶漬けを、
次女は最後のから揚げを食べ、ミカンを平らげ、
朝食は終了した。
その後、前髪をゴムでくくり、それをピンでなでつけて、
最近のお気に入りの髪形を自分で作りながら、
ふん、ふん、ふふふん、ふふふん、
と楽しそうにハミングしていた。
もしも次女が一人っ子ならば、
こんなに寂しがり屋ではなかったのかもしれない。
いつのまにか長女と一緒にいることが当たり前になっていて、
それがひとりになると、
寂しくてしかたなくなってしまったのかもしれない。
いつもは喧嘩する癖に。
昨日の夜も、とっくみあいのけんかをして、
ママに大叱られしたくせに。
何回言っても、学習しない、
けんかっぱやい二人姉妹のくせに。
毎日。
二人の育児と、老親のお世話と、ボランティアと、ジムと、畑と。
色々なことをやっていて、
ばたばたしっぱなしの私。
なぜこんなに、せかせかした生活を繰り返すのだろうかと、
たまに悩むときもある。
そしてそのバタバタのせいにして、
二人の娘の話をあまり、
じっくり聞いていないことがあり、
それが決して少なくないようにも思える。
だけど、たまにこうして、
次女の言葉の裏を読んで、
その本心に気づいた時、
自分の至らなさが恥ずかしくなる。
こんな、気づかないママで、ごめんねと。
きっといままでも、
見過ごしてきたことがいっぱいあったのだろう。
二人娘の言葉の裏にある本心に、
気づいてあげられなかったことが、
たくさんあったのだろう。
そう思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
でも決して、それを巻き戻すことは出来ない。
どんなに反省したところで、
取り戻して、やり直すことは出来ないのだ。
ならば、せめて、これからは。
たまにはちょっと立ち止まって、
言葉をきちんと受け止めてあげたいと思う。
今まで流していた言葉を、
その真意を汲んであげたいと思う。
すべての言葉を熟考するのは無理だとしても、
言葉をきちんと受け止めようという気持ちは、
持っていたいと思うのだ。
二人の言葉はこれから、もっと、
複雑になっていくのだろう。
そして私が気づかない、言葉の裏が、
たくさんできるのだろう。
言葉の裏を読むことなど出来ないほど、
いろいろな考えを持って、
話をするようになるのだろう。
けれど。
そうだとしても。
二人娘の言葉の裏を読むことを、
あきらめたくはない。
二人の心をおしはかる手がかりになる、
言葉と言うものを、
大切にしていきたい。
なぜなら私は「お母さん」だから。
これからもずっと、「お母さん」だから。
完璧ではないけれど。
だからこそ、
楽しい育児ライフを、
これからもしっかりとやっていきたいと思う。