冬菜かしこの「自由に 気ままに エッセイ」の日々

二人娘と一緒に遊んで、学んで、楽しんでいるアラフィフ小学生ママの記録です。

【エッセイ】過去は変えられる、のか?

何かで読んだが、

「過去は変えられる」らしい。

 

そんなばかな、過去を書き替えられたら、

歴史が変わるじゃん、と思ったかた、

ご安心ください。

要は、自分の気の持ちようで、

何とでもなるというものなのだ。

 

この考えには最初懐疑的だったが、

だんだん、もしかしたら、そうなのかな、

と徐々に私の心に浸透してきた。

 

いやなことがあっても、

人はその内忘れてしまう。

ものすごく辛い事でも、

その悲しみが消えることはなくても、

次第に風化していくのが常なのだろう。

だから、過去はどんどん遠くに行き、

次第に、自分の近況からは離れていき、

そのうちに、

「それもまた思い出であり、済んだこと」だと、

思う日が来るのだろう。

 

何となくわかったつもりでいたのだが、

過去を変えられるという考えを、

痛感する出来事があった。

 

それは、毎日毎日、家のものを断捨離して、

捨てて捨てて捨てまくっていた日の事。

いつものように、何か捨てようと、

衣装用プラケースを開けた。

なかなか手が付けられなかった

「子供の頃の、友人との、たわいのない小さなお手紙」

の束。

すでに捨てられるものが減ってきていたので、

一応、中を見て見たのだ。

 

つんとした昔の紙のにおいがして、

手紙を開くと懐かしい丸文字で、

友人達の思いがつづられていた。

 

その中に。

「ごりっぱなことを言っているけど」

という文章があった。

私は軽くショックを受けた。

常々家族からは、特に主人からは、

「えっらそうに」とよく言われる私である。

「そうかー、中学生からすでに、生意気であったかー、私」

と取り戻せないやるせなさ、

もう会うことはない友人との、

心のすれ違いを思い、

ちょっと心がさみしくなった。

 

「もう、過去の、子供時代のお手紙など、

全捨てしてしまおう」

思い切って、ゴミ袋に入れた。

こんなものがあるから、ショックを受けるのだ。

なくなってしまえば、

もう思い悩むことはない。

ゴミ袋に入れて、せいせいした気分だった。

 

ところが。

なぜか、ずっと引っかかる。

「私は生意気でごりっぱな事ばかり言う、いやな奴だったのだろうか」

もう取り戻せない過去の自分を不憫に思い、

どうにかできないかと考えた。

そうして、もう少しポジティブになれる手紙を読もうと思った。

 

一旦はゴミ袋に入れた子供時代の手紙の束を取り出して、

別の手紙を読んでみた。

それは別の人からで、いつも私をほめてくれる友人だった。

「これはほかの人にはないしょだよ。○○ちゃんと△△ちゃん、仲が悪いのよ。

どう思う?また意見聞かせて」

と書いてあった。

 

打ち明け話、しかも内緒の話。

そんなことを話してもらえるほど、信頼されていたなんて。

私もなかなかやるじゃん。

すっかり気をよくした、私。

ゴミ袋に入れるのをやめて、

「子供時代のお手紙は大事だよなー」

と衣装ケースに戻す始末。

単純だな、私。

まあ、そんなものだ。

 

よくよく考えてみれば。

人の記憶など、限られている。

それに比べて、その記憶の過ごした時間は、

途方もない膨大な時間である。

そんなにすべてを記憶できるものではなく、

結果として、自分の好きな、

あるいは、覚えておきたい出来事だけを、

自分の都合の良いように、取捨選択しているのだなと思う。

なんて、ご都合主義な。

でも、過去の記憶など、結局、

そういうものなんだろう。

 

けれど、54歳ともなった今現在は、

そんな過去の事にいつまでも構っている暇はない。

あと20年もすれば、74歳。

父が認知症を発症した年齢となる。

いつまで健康で、今の身体が保たれているか分からない。

ならば。

今できること、今したいことを、

するしかないのではないか。

 

人は、いつか人生を閉じる。

どんなに失敗しても、どんなに賞賛されても、

いつかぷっつりと、その生涯は幕を下ろすのだ。

何億円積まれても、それは変えられない。

この年になってようやく、

人生の意味について考えることが出来るというものだ。

 

子供の頃、小学校の図画工作の授業で、

「未来の世界」を書いた覚えがある。

私は、家を書いて、その家には地下があり、

いろいろ楽しそうな家を書いた。

クラスメイトは、近未来的な、

空中通路や空飛ぶクルマなど、書いていたと記憶している。

どちらも、あまり、ドンピシャで当たっている風ではない。

結局、私たちの生活は、

便利になる家電があり、

情報をやり取りできるPCがあったりするものの、

それほど大きな環境的な変化は、

なかったのだなと思う。

 

一方で、まさか自分が、こんな風に世の中に、

ブログを通して、文章を発信させてもらえる世の中が来るなんて、

あの頃の私はゆめゆめ思ってもいなかっただろう。

便利な世の中になったものだ。

 

人と人の交流が、手紙から電話へ、そしてスマホやPCになっても、

結局は、人は人なしでは生きられないし、

生きたくもないのだなと思う。

 

あの頃の、中学時代の私に、

今何か言えるとしたら、

「あなたは28歳で日記をつけ始めて、人生が変わるよ。

今は文章が書けない、って悩んでいたとしても、

そのうちに、書けるようになるよ。

だから、腐らず、やっていってね」

と励ましてあげたいと思う。

 

人生は、過去は、変えられる。

どうとでも、なるものだ。

それは、自分の気の持ちよう次第。

だからこそ。

「覚えておきたい過去」

を覚えておこうと思う。

自分を励ます。

自分を鼓舞する。

そのために。

覚えておきたいと思っているのである。