今の家に引っ越したのは、次女がまだ生後8か月の頃だった。
当時アパートに住んでいたが、二人の出産を機に、
庭付きの家に住みたいと思うようになったのだ。
長女は公園に行くと、なかなか帰宅したがらない。
いや、帰宅を拒絶する。
まるで、公園が自分の家の庭のように、
てこでもそこを動こうとしない。
話は通じない。
腕を引っ張っても、ふんばってくる。
どうにもしようがなくて、
大抵は、大きな魚を釣り上げた漁師のごとく、
両手で長女を抱えこんで、
力づくで家に帰るのだ。
そんなことを繰り返す日々に、
ほとほと嫌気がさして、
家を買うことにした。
庭付きの一軒家。
主人はずいぶん「庭は不要」と言っていたが、
私は庭のために家を買いたかったので、
そこはどうにも譲れなかった。
どうにか主人が気に入る家を見つけて購入した。
外の公園には行きたくないので、
大量の砂を購入して、花壇に入れた。
しっかりとした砂場が出来て、
長女は楽しそうに遊んでくれた。
そんな中で、ふと、生垣の一か所が、
気がスカスカなことが気になり始めた。
ほかはびっしりなのに、
そこだけなぜか生垣の木が枯れていて、
ぽっかりと空いていた。
外から丸見えだ。
ちょっと、やだなと思った。
そこで、柿の木を植えることにした。
50㎝ほどの柿の木の苗木。
果たしてちゃんと育つのか、
不安になるほどのヒョロヒョロ具合。
でもまあ、どうしても柿を成長させなければならない義務もないし、
気楽に行こうと思うことにした。
そうして数年が過ぎた。
最初は、それほど気にもしなかったのだが、
一向に成長の兆しが見えない。
幹が大きくなったり、枝葉が茂ったり。
そんなそぶりはない。
「桃栗三年、柿八年」
というではないか。
2年目の苗木を買って植えたのだから、
あと6年は辛抱だよと、
自分に言い聞かせながら、
「あと6年?ほんまかいな」
という自分もいる。
不安しかなかった。
翌年も、翌年も。
変化はなかった。
ちょっとずつ枝が伸びたりはしたが、
ぐんと大きくなることはなかった。
これは、はずれだったかな。
そう思っていた。
柿の木の傍に植えた、
畑スペースの夏野菜に水やりをするついでに、
柿の木にも水をやった。
バラに水やりをするときにも、
ついでに水をやった。
どうせだめかもと思いながら、
でももしかしたらと思いながら、
ついでの水やりをした。
少し大きくはなったが、
少し葉はついてきたが、
実のなる様子はなかった。
「やはり、素人はこんなものか」
と半分あきらめていた。
自体が急変したのは、それから数年後の事。
ちょうど、2年物の苗木を植えてから、7年後くらいたっていた。
小さな緑の実が、葉と同じ緑の実が、
葉の隙間からのぞいていた。
本当に橙色になるのかと思っていたが、
とうとう橙色に色づいた。
もいで、台所に持って行く。
家族4人で食べるには、
小さすぎる実だった。
その年、数個の実がなった。
柿八年、本当だったのだ。
翌年、また数個の実を付けた。
前年より少し多かった。
それでも、5、6個というところ。
柿の収穫と言うには物足りない。
近所のたわわになっている柿の木に比べたら、
本の気持ち程度の柿だった。
そうして、次の年は全く取れなかった。
どうしたのかと心配していたが、
今年はまたしっかりと柿は実を付けていた。
その数、11個。
近所の柿の木には及ばない。
どの家も、食べきれないほどの橙色をつけている。
柿の木とは、こういうたわわななりかたをするんだな。
我が家の柿の木を見ながら、
ちょっと違うなと思った。
年数が違うのだから仕方がない。
残念だが、どうしようもない。
果物の木とは、個体差があるものなのだ。
柿の木の横には、八朔、温州ミカン、モモ、すもも、さくらんぼと、
色々植えている。
いまのところ柿以外は、全く動く気配はない。
モモに至ってはもう葉すらない。
それでもひっこぬかずにそのままにしている。
いつか、また、数年前のように、
ちょっと桃の花が咲かないかなと思っているのだ。
そうして、果物を植えて、何年も経つが、
そのころの気持ちは今は薄れている。
もう気づいてしまったのだ。
果物の木を植えると、
実がなるまでに年数がかかるのだと。
頭では分かっていたが、
実際には長い長い道のりだった。
これからそれをするのかと思うと、
二の足を踏んでしまい、
「数年で実がなる木なら」
と条件をつけてしまいたくなる。
いつか、どこかできいたのだ。
「林業は、昔の人が植えてくれたものをいただいて、
材木にしているのだ。
そして、自分たちが植えたものは、
子供たちが切り出していくのだ。
自分たちが植えたものは、
自分たちで使うことは出来ない。
それでも、木を植えていくんだ」
その時はよくぴんと来なかったが、
今なら分かる。
人間の命に寿命があることが、
肌感覚で分かってきたからこそ、
今ならば分かるのだ。
自分の事ばかり考えていると、
木なんて植えられない。
いつか私がこの地を離れても、
柿の木は残るだろう。
それでもその柿の木を植えたのは、
間違いなく私なのだ。
庭にスコップで大きな穴を、
えっちらおっちら掘って、
牛糞を入れて、苗を植えたのだ。
おかげで今は11個もの柿の実をつけてくれている。
この柿の木は、私の柿の木なのだ。
そう思うだけでなんだか、うれしくなってくる。
柿の木を持ち歩くことは出来ない。
引っ越しても、よほどでなければ、
持って行けない。
それでも、私が柿の木を植えたことに間違いはないのだ。
二人娘が、「柿、たべなーい」と言っても、
主人が、「あんまり、たくさんは無理かな」と言っても、
そんなのは、小さなこと。
私は柿の木を植えた。
そして立派に柿の実がなった。
それでいいのだ。
こうして書くと、それはまるで、子育てのようだな。
まあ、いいや。
これからも、おおきくなあれ。
水道水と愛情と、太陽をいっぱい浴びて。
どこまでも、大きくなあれ。
ああ。
柿の木を植えて、良かった。
本当に。
良かったな。