ある種の才能があれば、
自分はもっと輝けたはずだと、
若いころに思う人は多いだろう。
そういう私だって、
少なからずそう思っていた節がある。
大したことでなくても、
たとえば、勉強やスポーツ以外にも、
歌だの楽器演奏だの、
話し方だの人気者だの、
料理だの手先の器用さだの、
なんだっていいのだ、
何か自分にはもっと才能があればと、
そう思ってしまうものなんだなあと思う。
ところが、50歳も過ぎてみれば、
自分の人生の限りが見え始めてくる。
今からは、無理だろう。
そう思えることが増えてくるのだ。
それは体力的にはもちろん、
精神的にも無理が出てくる。
気合を入れて何かに打ち込んだとて、
とうてい、徹夜などはできない。
徹夜明けの自分の体力がどうなっているか、
次の日が使い物にならないと、
分かってしまうのだ。
それでは、もう何かをしたくなっても、駄目なのかと言うと、
そうではないと思っている。
矛盾しているようだが、
違う戦い方があるように思えてくるのだ。
それはまるで、力のないものが、
てこの原理を利用するようなもの。
体力がないなら、道具を使う。
記憶力が落ちたなら、パソコンを駆使する。
そういうものだ。
しかし、それだけではない。
それが、「才能の、向こう側」
だと思っているのだ。
「才能の、向こう側」
それは、下手に才能がある人は気が付かない領域。
いうなれば、ニッチ産業。
「上手ではないけれど、
ずっと、ずっと、続けていくうちに、
わくわくしながら習慣づけて、続けていくうちに、
気が付くとものごとが上達してしまっていた」
そんな感じ。
それが、才能の、向こう側。
だけど、それこそが、凡人の戦い方なんだと思う。
私はそれに気づかず、
いろいろなことを投げてきた。
才能がないことを言い訳にして、
どうせ、平凡な人生だと、あきらめていた。
きっとそういう、私のような人が、
世の中には多いのだと思う。
だからこそ、いまこそ、言いたい。
才能がすべてではない世界が、
世の中にはいっぱいあるのだと。
28歳の時、外国に短期留学した。
折角だからと、日記を毎日つけだした。
限られた貯金をはたいて、
出来もしない英語を使って、
3週間を過ごした。
英語の能力の向上はなかったが、
日記は付け続けた。
どうしてだか、やめなかった。
きっと習慣になっていたのだろう。
気がつくと、25年の歳月が過ぎていた。
図書館で借りた本に、
「1万時間の法則」
というのがあるのだと書いていた。
なるほど。
腑に落ちた。
急に、文章が書けるようになったのは、
そういうことかと、納得したのだ。
けれど、こうも思った。
「文章を書けるようになったのは、
1万時間の法則かもしれないが、
文章の内容は、
今までの私の人生の全てが詰まっているのだ」と。
つまり。
私達が何かを成し遂げようとするとき、
「1万時間」を費やせば、
おそらく、多くの事は、
それなりに出来るのだろう。
しかしその内容は、
その人の人生が反映されているのだと。
そういう事のような気がするのである。
たとえば。
ずっとスイーツを食べてきた人が、
お菓子作りを1万時間したとする。
その作り方は、1万時間のおかげで、
すばらしいものになったのかもしれないが、
どのような味にするのか、
どのような材料をするのか、
どのような見栄えにするのか、
それを決定するのは、
その人の今までの経験が生きてくるのだろう、
ということなのだ。
才能とは、何なのだろう。
実際のところ、良くは分からない。
けれど、それだけで何かを成し遂げることなど、
きっと出来ないのだろうなと思う。
才能の、向こう側にある、
わくわくする好奇心が、
きっと私たちを、
突き動かしてくれるのだろう。
そしてそれこそが、
私達にとってとても大切な宝物のような気がするのである。
小学校でボランティアをしている。
絵本を読んで、算数を教えて、生け花を生けている。
そうして小学生に接する時、
そのパワーに圧倒されるときがある。
「ああ、これなんだ」
そう思える時がある。
子供は天才。
そして、それを信じることが、
最初の一歩のような気がしている。
隣の人を見て、ひるまなくていい。
自分の信じた道を進んでくれたらいい。
自分の子供がどうとか、
他人の子供だからどうとか、
きっと本当は、大したことではない。
親だから、もうあきらめる?
子供だから、応援する?
そんなこと、ないと思う。
何歳だろうが、関係ない。
やりたいことをしたらいい。
大きな才能がなさそうなら、
才能の向こう側に、行ってしまえばいい。
自分だけは、自分を信じて。
きっとそれはとてつもなく、
わくわくするものだと思う。
一緒に、人生を。
エンジョイしていきましょうよー。